浦大谷家の先祖が落ち延びた「浦」の地は、別の城主が落ち延びた地でもありました。
1529年に今川家臣で今橋城主の三河牧野氏は、松平清康(家康の祖父)に今橋城を攻め落とされ、その後「浦」に落ち延びたと言われております。牧野家だけでなく豊臣家家臣の山崎家や伊藤家も同様に浦町に落ち延びています。
かつての「浦」の地は交通も至極不便で、南は蔵王山脈を経て境となし、西南端は断崖絶壁で海に迫る白谷の地、西は片浜・波瀬の海面、東は入り江に至り、三面海に囲まれた自然の要塞ともいえる隔絶された地でした。「浦」という地は、牧野家や大谷家を匿うには絶好の地であったようです。
浦大谷家の祖先も、「浦」という地は三河牧野一族が落ち延びている地である、と耳にして、この地であれば徳川時代も超えて大谷家の血筋を残せるかもしれないと意を決したのかもしれません。
浦の人々が、大谷家が落ち延びた際に快く受け入れてくださったことや、江戸時代を通して幕府に密告せず、吉隆のお墓を建て、吉継についてかぞえ歌の歌詞にまで入れるほど大谷吉継を愛し、慕ってくださったのは、牧野一族などの匿いの事例や経験があってのことかもしれません。