浦大谷家の歴史
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浦大谷家の歴史と大谷吉継の逸話
浦大谷家の歴史が散りばめられた
「よしつぐくん」
浦大谷家の歴史を発信する活動をするにあたり、浦大谷家のアイコン的存在となるキャラクターを、友人であるfutamiさんにデザインしていただきました。
デザインの中に先祖の大谷吉継と浦大谷家の特徴や逸話が随所に散りばめられています。
【よしつぐくんに隠された4つの特徴】
① 白目は吉継の盲目をあらわす
② 軍配に吉継の家紋の鷹の羽を 背景に浦大谷家の家紋の違い矢を
③ 後ろの樹は朝鮮出兵で吉継の命を救ったシジの樹をあらわす
④ 輿の前面の模様が浦町のある地「田原」の模様になっている
浦大谷家の
歴史を紹介します
浦大谷家の歴史は口承・言い伝えによるものがほとんどです。「愛知県渥美郡田原町浦区郷土史(浦史)」に浦大谷家に係る記述が多くあり、本HPで紹介する歴史や逸話のいくつかも浦史から引用しております。
浦大谷家ゆかりの地
大谷吉継の御神体を祀る
「八幡社」
浦町に落ち延びた大谷一族が奉持した御神体の一部を移した神社であり、浦大谷家のはじまりを記す由緒碑があります。浦大谷家ゆかりの地で唯一どなたでも訪れることができる場所です。
アクセス:愛知県田原市浦町北条2-2
八幡神社由緒碑はこちらをクリック
大谷吉継の御神体を祀り浦大谷家が
400年守り続けた「大谷神社」
大谷吉継の御神体の一部を祀るために建立され、浦大谷家が400年に渡って守り続けている神社です。
ほこらのような佇まいであり、私有地内に位置します。
吉継の戒名を記す
「大谷吉隆の墓」
江戸時代から明治時代を通して浦町の人々が愛した大谷吉継を気軽にお参りできるようにと、大正時代に建立されたお墓(慰霊塔)です。私有地内に位置します。
大谷吉継は生前「吉隆」に改名しており、町の人々はこの改名を尊重し吉隆と呼んでいたことからこの墓には
「敦厚院
吉
峰明
隆
大居士」
の戒名が刻まれました。
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「名字を変え」血筋を守り続けた浦大谷家
関ヶ原の戦い後に浦に落ち延びた大谷家は、徳川政権下で関ヶ原の戦いの西軍重要人物であった大谷家の末裔と発覚しないようにするため、名字を「大谷」から「大
屋
(おおや)」に変えて大谷の血筋を守り続けました。
石田三成の子孫も「杉山姓」に変えて時代を超えてきた逸話があり、吉継と三成の絆が次世代まで続いているのかもしれません。
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「家紋も変え」血筋を守り続けた浦大谷家
丸に違い鷹の羽
大谷吉継は一族の家紋をこの「丸に違い鷹の羽」としていましたが、その後「対い蝶」へと変更しています。
丸に違い矢
名字と同様に家紋も鷹の羽ではなく「
違い矢
」へと変えて、大谷の血筋を守り続けてきました。
対い蝶の家紋でなく鷹の羽に似た家紋とした理由は、対い蝶は複雑で似た家紋が少ない一方、鷹の羽は類似性の高い家紋が多く、大谷吉継の連想を少しでも抑えられることからではないかと推測します。
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「家紋も変え」血筋を守り続けた浦大谷家
丸に違い鷹の羽
大谷吉継は一族の家紋を
この「丸に違い鷹の羽」
としていましたが、その後
「対い蝶」の家紋へと
変えています。
丸に違い矢
名字と同様に家紋も鷹の羽ではなく「
違い矢
」へと変えて、大谷の血筋を守り続けてきました。
対い蝶の家紋でなく鷹の羽に似た家紋とした理由は、対い蝶は複雑で似た家紋が少ない一方、鷹の羽は類似性の高い家紋が多く、大谷吉継の連想を少しでも抑えられることからではないかと推測します。
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現在の浦大谷家は、名字は大谷に戻し、家紋は戻さず丸に違い矢のままで今に至ります。
時代を超えても愛され続ける大谷吉継を尊敬し、胸を張って「大谷」の姓を名乗った一方、
名字や家紋を変えてまで大谷の血筋を守ろうとしてきた先代を敬い家紋は戻さないままと
したのかもしれません。
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現在の浦大谷家のほとんどは、名字は大谷に戻し、家紋は戻さず丸に違い矢のままで今に至ります。
時代を超えて愛され続ける大谷吉継を尊敬し胸を張って「大谷」の姓を名乗った一方、名字や家紋を変えてまで大谷の血筋を守ろうとしてきた先代を敬い、家紋は戻さないままとしたのかもしれません。
大谷吉継の御神体
浦大谷家が祀る大谷吉継の御神体5柱は八幡神社と大谷神社に祀られています。
①
水 晶
※八幡神社に祀られている
ビー玉ほどの大きさ
②
鏡
※八幡神社に祀られている
③
シジの樹の葉
※八幡神社に祀られている
朝鮮出兵で大谷陣営を救ったシジの樹の葉
④
短刀(鎧通)
※大谷神社に祀られている
大谷吉継所有「
志津三郎兼氏
」作の短刀
⑤
刀の鍔
※神社に祀られている
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大谷吉継の遺品発掘調査
大谷神社に大谷吉継の遺品が埋めてあるという伝説があり、昭和初期から中期頃に浦町研究会の者が大谷一族立ち合いのもと発掘調査が行われました。
現在、御神体として祀られている「志津三郎兼氏」作の短刀(鎧通)を含む大小数振りの刀剣や鎧や槍などの武具などが出土しました。現存する遺品は当該短刀のみです。
浦大谷家と湯浅五助一族との交流
「吉隆の四男は幼児であったことから吉隆の遺言に依り、吉隆の家臣、岩田五助が背負って北海道に落ちのび、大谷・岩田家共に栄存した。明治20年頃まで、関ヶ原の合戦にて討ち死にしたといわれる岩田五助の子孫と大谷吉隆の四男を名乗るものの間で交流があり、先祖吉隆の祭祀を頼むと音信が浦の大谷家宛に到着した。」
上記の記載は「愛知県渥美郡田原町浦区郷土史」に記されています。
岩田五助は「湯浅五助」を指すと思われ、北海道に湯浅五助の子孫とともに逃れた大谷家の誰かが遠くからでも先祖吉継を慕っており、その思いが読み取れるエピソードです。
事実であるかは分かりませんが、関ヶ原の戦い後も、大谷家と湯浅家が遠く離れた北海道でもともに居続けていたことは、吉継と五助の介錯の逸話と同様に胸に響きます。
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童浦かぞえうた
一番はじめに笠山は その名もおたかき三河富士
二には 錦を飾りきし ほまれも高き北部高
三には さざ波打ち寄せる 大洲の岬 泣く千鳥
四には しら帆の並びくる 波瀬海岸の夕景色
五 いくとせ 過ぐるとも 御徳は ちょうきょう先生の
六つ 六月の八幡社 夜は火の海 人の波
七つ 夏の西がさき 海水浴で 知られたり
八つ やよい姫島に 通う千鳥と ひくかすみ
九つ
古墳のこうじんは
大谷よしたか
祭りたり
十で 年々栄ゆく 我が童浦は 文化村
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童浦かぞえうた
一番はじめに笠山は その名もおたかき三河富士
二には 錦を飾りきし ほまれも高き北部高
三には さざ波打ち寄せる 大洲の岬 泣く千鳥
四には しら帆の並びくる 波瀬海岸の夕景色
五 いくとせ 過ぐるとも 御徳は
ちょうきょう先生の
六つ 六月の八幡社 夜は火の海 人の波
七つ 夏の西がさき 海水浴で 知られたり
八つ やよい姫島に 通う千鳥と ひくかすみ
九つ
古墳のこうじんは
大谷よしたか
祭りたり
十で 年々栄ゆく 我が童浦は 文化村
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上の歌は、浦町の児童にかつて歌われていた「童浦(どうほ)かぞえうた」という数え歌です。
9つ目の歌詞は町の人々が慕う吉継に関する歌詞であり、大谷(荒神)神社で大谷吉継を祀っていることを説明しています。
浦町の人々は吉継が改名したことを尊重し、大谷吉隆の墓と同様に改名後の「よしたか」の名で歌に記しました。
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上の歌は、浦町の児童にかつて歌われていた「童浦(どうほ)かぞえうた」という数え歌です。
9つ目の歌詞は町の人々が慕う吉継に関する歌詞であり、大谷(荒神)神社で大谷吉継を祀っていること示します。
浦町の人々は吉継が改名したことを尊重し、大谷吉隆の墓と同様に改名後の「吉隆」の名で歌に記しました。
浦の地は匿いの地
浦大谷家の先祖が落ち延びた「浦」の地は、別の城主が落ち延びた地でもありました。
1529年に今川家臣で今橋城主の三河牧野氏は、松平清康(家康の祖父)に今橋城を攻め落とされ、その後「浦」に落ち延びたと言われております。牧野家だけでなく豊臣家家臣の山崎家や伊藤家も同様に浦町に落ち延びています。
かつての「浦」の地は交通も至極不便で、南は蔵王山脈を経て境となし、西南端は断崖絶壁で海に迫る白谷の地、西は片浜・波瀬の海面、東は入り江に至り、三面海に囲まれた自然の要塞ともいえる隔絶された地でした。「浦」という地は、牧野家や大谷家を匿うには絶好の地であったようです。
浦大谷家の祖先も、「浦」という地は三河牧野一族が落ち延びている地である、と耳にして、この地であれば徳川時代も超えて大谷家の血筋を残せるかもしれないと意を決したのかもしれません。
浦の人々が、大谷家が落ち延びた際に快く受け入れてくださったことや、江戸時代を通して幕府に密告せず、吉隆のお墓を建て、吉継についてかぞえ歌の歌詞にまで入れるほど大谷吉継を愛し、慕ってくださったのは、牧野一族などの匿いの事例や経験があってのことかもしれません。
知られざる大谷吉継の
逸話を紹介します
朝鮮出兵で大谷吉継の命を救ったシジの樹
朝鮮出兵で日本軍は兵糧が尽き飢えに苦しむ中、大谷陣営では朝鮮の地に生える「シジの樹」の実を食べて飢えをしのいだ伝説があります。吉継はシジの樹の実を持って朝鮮から日本に戻り、家臣たちに命を救ってくれた「シジの樹」について伝え大切に育てるよう指示したようです。
浦大谷家にもシジの樹は受け継がれ、浦に落ち延びた一族が大切に育て、現在も浦町にて立派に立ちそびえてます。このシジの樹は珍しく朝鮮固有種と思われ、日本では唯一浦町に生えているのみです。
戦働きよりも物資輸送や兵站役など裏方に徹した吉継が、兵糧の大切さを一族に語り受け継いだ吉継らしいエピソードです。
朝鮮出兵では、島津の「鬼石曼子(グイシーマンズ)」や加藤清正の馬肉発祥、虎退治のエピソードなどがありますが、大谷吉継のシジの樹の逸話も知られざる魅力的な逸話ではないでしょうか。
シジの樹は大谷軍だけでなく日本軍も救った樹かもしれないですね。
大谷吉継の顔は
ドングリまなこで鷲鼻の濃い顔?
浦大谷家の特に男性は、「顔が濃く、眉が太く、ドングリまなこに
鷲鼻」という顔つきであり、私の祖父も正にそのとおりです。
偉人のDNAは表に出やすいらしく、「大谷吉継」の顔は
濃い顔
だったかもしれないですね。右の写真は祖父と映る幼少期の私の写真です。
想像の範疇の話ですが「もしかして」と思うだけでロマンを感じざるを得ません。
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